今月の掲示板(最近の3か月)


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▼11月の掲示板

世話になるすべてに礼をいふこころ

そのまま神ををろがむこころ


11月の掲示文を読んで思うこと
 この四代金光様のお歌を読ませていただいたとき、真っ先に思ったことは、「人は生かされている」ということでした。
 今の自分の日常を振り返ってみれば、親、兄弟、家族だけでなく、教会の方々や仕事関係、友人等、多くの人に支えられお世話になっています。また、移動するときには、車や電車、飛行機、船舶等々。食事をするときには、食物を始めお箸や茶碗、お皿。また眠っているときでも呼吸を始め布団やベッド、枕等々…。数え上げればキリがありません。
 裏を返せば、人は自分の身一つでは何もできない。生きていくことができない弱いモノです。では、なぜその弱い人間が生きていけるのか?それは簡単に言うと、先に述べたように「生かされている」からです。

 私は教会へお参りしているときは、日常生活のお礼をご祈念したり、お結界で先生にお礼を申し上げます。
 しかし、教会を一歩出れば、もう自分を取り巻く多くの人や物にお礼を言うことを少しずつ忘れてしまいます。

 実際、お礼を言うのを忘れているときに限って、物事がうまくいかない時が多いのです。そんなとき、ふと「あ!お礼を言うのを忘れている!?」と気づかせてもらうことがあります。

 そして、さらに冷静になってみると、いかにお礼を言っていないことの方が多いのです。そう思うと、神様に対するご無礼の多さに気づきます。
 人はすぐに自分中心に物事を考えてしまいます。少しでも信心をさせていただくと、お世話になっている人や物、そして何より神様に向けてお礼を申し上げることができるようになってきます。

 そうすれば、不思議なことに少しずつですが、心(内面)が変わってきます。

 そして、いつも神様が見ていてくださると感じることができれば、お礼を言うこと、信心をさせていただくことが、もっと楽しくなると思います。
(F.K)


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▼10月の掲示板

自然のなか衣食住みな世話になり

育ちいきつぐいのちなりけり


10月の掲示文を読んで思うこと
 結婚してから田園都市?に住むようになり、それまでアスファルトの商店街で育った私には毎日が発見でした。四季の移り変わりが肌で感じられます。

 春は、ふき、たけのこ。
 夏は、なす、きゅうり、とうもろこし、枝豆、すいか。
 秋は、何よりもおいしい新米、栗や柿。
 冬には大根、白菜と…。

 旬の取れたての野菜をご近所からいただくのが、何よりうれしく、自分でも子どもといっしょに野菜畑やお花畑を作ったりしました。
 土を耕し、種をまいて雑草を取り、水や肥料を与えて収穫できたときは、始めてその大変さを知りました。
 夜は蛙の合唱で眠り、朝は鳥のさえずりで目ざめる。雨露をしのげる家があり、洋服も買えるのは主人のおかげ、両親のおかげ、いろんな人のお世話になってありがたいな、幸せだなぁと思えるようになりました。


 幼いころ、両親や祖母にしてもらったことを最近よく思い出します。
 私が昼寝をするとき、祖母が蚊取り線香をつけて、アセモができないようにと私の体中に、てんかふん(シッカロール)をパタパタとはたいて、横でうちわをあおいでくれていたのを、夏の匂いがすると思い出します。私も子どもが小さいころ、同じようにしてきました。
 季節ごとの行事もできる限り子どもの心に残るように楽しんでいます。

 毎日の食事はできるだけ手作りの母の味を心がけています。
 小学二年の次男が、「お母さんが作ってくれたごはんがおいしい。おいしい物が食べれて、しあわせ!」と言ってくれるときが、一番幸せを感じます。

 何げないことでも幸せや感謝を感じられる人間になってほしいと思いますし、親になったとき、その子どもに伝えていってくれればと思います。
  (M.M)
      


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▼9月の掲示板

一生が修行稽古とつつしみて

み教へのままに歩ましめ給へ


9月の掲示文を読んで思うこと
 私は教会で、お花の御用をさせていただいて約十年経ちます。
 お花とは、娘の頃より数えますと年数だけは長いのですが、その間にも、日本の活け花から洋風の活け花へと変わっていきました。

 どちらの様式でも、初めは花型から入って、それを覚える。それから、自分で理解して自分の物にするまで、時間がかかります。ただなんとなく、稽古をしていたとき、しぶしぶ稽古をしていたとき、楽しんでお花に向かっていたとき、それぞれの年齢や置かれていた状況で、お花は同じでも気持ちの持ちようは大変違います。また洋花と和花では、まったく違うように見えますが、だんだんその違いと同一性を発見することもあります。
 年々、お花の種類も多くなり、名前を覚えるのに苦労したり、扱い方を失敗して学ぶことはたくさんあります。このようなことなので、まだまだこれからです。

 このお歌のように、毎日の生活を修行、稽古とどれだけ、思いとどめるときがあるかなと考えさせられました。お花を入れるそのとき、そのときが私にとっては稽古ですので、修行ととらえやすいのです。

 しかし、日々起こる些細なこと、楽しいこと、悲しいこと、つらいこと、嬉しいこと、つまらないことと思うこと等、それぞれを切り取って、これは辛抱の稽古なんだ、色々な立場を分からせてもらえることなんだと、すぐには受け取れません。どれだけ、み教えに照らしていっている私かなと思いました。

 一本のお花でも、様々な用い方があります。主になったり添えになったり、有っても使わない方が良かったり、他の花と効果的に作用しあったり、反対に殺し合ったりと、その時々で違います。

 毎日の生活のなかで、自分も一本の花のように様々な場に直面することがあります。それがどんな修行なのか、稽古なのか、少しでもみ教えを実行できるようにしたいと思います。
(K.K)
      


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