天 地 書 附

金光教で信心の根源として大切にしているもので、
教会や信奉者の家庭に掲げているものです。
この書は、前教主、金光鑑太郎様が書かれたものです。


天地書附の写真

 [天地書附が生まれてくる背景]
 明治6年、国家の宗教政策の推移の中で、教祖・金光大神の広前が閉鎖される、という事態が起こりました。広前にあった形あるもの、つまり、神をまつったお厨子(ずし)、お供え物、提灯などを、みな片づけなければならない、そうした事態になりました。その間、約1か月、神は金光大神に「休息いたせ」と論されました。天地書附は、そうした事態を経て、神から示されたものです。
 したがって、世の中がどのように変わろうと、形あるものがなくなろうと、信心のうえで変わらないもの、形を超えて存在するもの、いうなれば永遠なる神信心の世界が、天地書附として、その4行に書き記された、ということができます。

 [天地金乃神]
 天地書附の中央、二行目の上辺に、大きな文字で「天地金乃神」としたためられています。私どもが信じ仰ぐ金光教の神の御名です。
 天地は、天地の中の一切のいのちのもと、一切のはたらきのもと、としてある神です。私たち人間は、神からいのちを分け与えられ、たましいを分け与えられています。神は、いつも私たちと共にいてくださり、生きている間も死んでからも、私たちは、その無限な神のふところに抱かれているのです。
 神は、大きな願いを持っておられます。神の光を世界中に輝かせて、明るい世界を築きたい、という神願です。

 [一心に願]
 二行目の下辺には、「一心に願」と書き示されています。これは、人間が神に向かう、そのあり方を示したものです。
 「願え」ということばの中には、人間が難儀に陥らざるを得ないわけがら、難儀の諸相、助かりたいとの願望、助かり方までも含み込んだ、神からの人への祈りが書き示されている、と解することができます。
 そこには併せて、助かるためには「一心に」願うよう、示されています。大切なことは、神の思いと一つ心になって、ということです。それが、「神と人とが共に生きる」助かりの世界を生み出すもととなります。

 [生神金光大神]
 人間の世界は、神への無礼、人間の難儀が渦巻いています。神は助かってほしい、人間は助かりたいと、それぞれ熱望しているのに、現実には、そこにつながりがつかないところがあるのです。
 そうした事態に対して、神は、生神金光大神を差し向けて、神と人とがあいよかけよで共に助かる道を実現しようとしておられます。それが一行目に記された「生神金光大神」の6文字が意味するものです。
 この文言は、金光大神の取次のはたらきによって、ということを表しています。取次とは、簡潔にいえば、神と人とを結び付けるはたらきです。このはたらきがあって、神に「一心に願」うことが成り立ち、神と人とのあいよかけよのはたらき合いが生まれます。
 「生神金光大神」ということばが、「天地金乃神」と「一心に願」う人間との間に、それに寄り添うようにして記されている、ということが意味しているのは、以上のようなことです。

 [おかげは和賀心にあり]
 「和賀心」とは、人の心が神に向かい、取次のはたらきを受けたときに、わが心の中に呼び覚まされてくる、分けみたま、あるいは心の内なる神、といってよいでしょう。
 分けみたま(心の内なる神)は、さまざまな姿をとって現れますが、その根底にあるのは、神に対しては、神と共に生きている喜び(賀)であり、人に対しては、われ人共に助かろうとする思い(和)です。わが心の中に呼び覚まされる、和と賀をもととした心を、「和賀心」というのです。

 [今月今日でたのめい]
 「今月今日」というのは、「わたし」が生きている今、かけがえのない今、ということを意味しています。過去も未来も、今につながることによって意味を持ちます。ですから、今をよりよく生きることが、最もよく生きることにもなるのです。
 「たのめい」については、 二つの受け取り方ができます。
 一つは、そのことばを、生活上起きてくる具体的な困った事柄の解決を、何事でも神に頼めよ、と受け取るものです。その考え方によれば、「一心に願」が、主として神と人との交流、かかわり方を示しているのに対して、このことばは、具体的な個々の問題を頼む、ということを示している、と解されるのです。
 他の一つは、たのみすがれよ、という意味として「たのめい」を受け取るものです。その場合は、いかなるときも神から離れない、あるいはどのような状況の中でも、神に任せ切る、また信心の辛抱をする、ということへの促し、という意味を持つことになります。
(金光教 教義の概要「神と人 共に生きる」から抜粋したもの)


◆トップに戻る ◆お   話 ◆竹部教雄 講話集
◆今月の掲示板 ◆金光教城南教会について