自分の「たましい」について考えてみる

竹 部 教 雄   



 私は霊祭をお仕えするということは、単に亡くなった方のお祭りをするだけでない。亡くなった方のお祭りをとおして、私ども自身というものが、一体どういう存在なのか、私たちは、一体どこから来て、どこへ去っていくのか。そのよってきたるところ、去りいく先が、いかなるものであるか、その中身を持ってのただ今の自分というものは、一体どういうものなのであるかということをよくよく考えて見る。
 私どもは日々、生活に追われております。そのために、私どもの魂についてまでは、およそ考えるゆとりがないのでございます。せめて春、秋の霊祭には、自分の魂について、考えをめぐらせてみるということ、そのことも、私は霊祭の大切な内容になるのではなかろうか、というように思わせてもらうようになったのであります。
 改めて、
「自分の人生はどういう人生であるか。今日ここで自分の生命が終わっても、悔いはないかどうか」
ということを自分の胸に問うてみる。それについて、なんらかの答えを自分の中で出してみる。こういうところに、霊祭りをお仕えする、一つの意義があるのではなかろうか、このように思うのでございます。


 私は今年2月26日の朝、6時のご祈念の最中に、軽い狭心症の発作が起こりました。始めてのことで、自分の身になにが起きたのか、見当がつきませんでした。じっと座っていることができなくて、すぐ、ご祈念の座から離れて、この脇の部屋で休みました。その時、正直いって、これで死ぬのではないかという思いもいたしました。
 そこで、声を出す気力もない中で、これで死んで悔いはないかと、自分に問うてみました。まずまず悔いはない、という答えが出てまいりました。真に思いがけないことでございましたが、66年の私の人生というものを一瞬の内に、省みさせて頂くことができました。このように、死生の安心を得させられることになってきている、ご信心の中身というものを改めて、よく味わってみなければならないと思わせられているのでございます。


 本教の霊様は、世間の霊様とは違うご存在ではありますが、神様も世間の神様とは違うご存在であると思うのでございます。天地金乃神様は、永遠無限のご存在ではございますが、私ども一人ひとりに即してみますと、私どもが生まれたと同時に、私どもの肉体の中に、お宿りくださり、お働きをしてくださるわけでございます。ですから、私どもが死ぬということは、とりもなおさず、その天地金乃神様がお亡くなりになるということだと私は思うのです。
 私はこれまで、人間が死ぬということは、人間だけが死ぬと思っておりましたが、こちらの信仰、教義からいたしますと、その人の中に生き給うた、天地金乃神様も一緒にお亡くなりになる。それがお道での死の意味であろうと、このように思うのであります。

 そこで大事なことは、その天地金乃神様のおかげを受けて、そのおかげをこの世の中に現すということ、「それが信心して神になれ」と仰る中身でございます。ですから、私どもが生きているということは、色々のことを通して、そこに神の働きを感じとり、神の働きを現していくということが、私どもが生きるということのいよいよの意味合いであろうかと思います。
 そういう次第で、神様と霊様と自分というものは、別々のものではありません。そういうこととして、おかげを蒙ってまいりたいのでございます。私どもの「いのち」に具わっている、こころの働きというもの、そのこころの働きの奥底に、「たましい」(霊)という働きがある。その「たましい」の働きに気づかせて頂くということ、その「たましい」の働きを現させて頂くということ、これが私は、信心してお徳を頂くということであろうかと思うのでございます。

 ですから、信心というのは、何かことが起きてきたからするものではない。われわれが日々、生きていく中で、「たましい」というものを育てていく、このことをぬきにしては、充実した生活にも恵まれないし、生き甲斐も見出せないと思うのであります。
 で、その「たましい」が働くようになると、どうなるかといいますと、家内がいろいろと言うてくれるおかげで、こういうことがわからせてもらえるようになった、ありがたいことである。子どもがいろいろと言うてくれるおかげで、こういうことがわからせてもらうことになった、ありがたいことである、というようになってくる。主人がむつかしいおかげで、こういうことがわからせてもらうようになった、というように、主人が頂けるようになってくるのであります。信心しておろうが、いまいが、主人、奥さん、子供さんの中に、天地金乃神様はお働きになっている。主人や奥さんや子どもさんを通して、いつも教えをしてくださっている。それを我々は、子どもが言っているのだ、家内が言うておるんだ、夫が言っているんだ、というような聞き方しかしておらない。その奥に、家族の言葉を通して、神様が教えをしてくだされておるのであります。
 そこが、わかってまいりますれば、次第次第に、家内のおかげで、主人のおかげで、子どものおかげでということがいえるようになってきます。子どもは子どもとして、大変な働きをしているのであります。われわれよりも、すなおに、「たましい」の働きを現していないとは言い切れないのです。軽く見てはいけないのです。そういう点が、来年の春の霊祭りをさせてもらう時に、どういうことになっておるか、一つ楽しみにさせて頂きたいと思います。


 常々申しておりますが、私は三代金光様を始め、高橋正雄先生、また父母の死に出合ってまいりまして、そこに頂かしめられたものは、「ありがとうございます」という思いでした。もっとこんなことをしておけばよかったとか、いうような悔いを残さしめない、そういう人生をお送りくだされたのでございます。そして、生きている時に、伝えることができなかったことを生命を亡くすことによって、伝えてくださっているということも、感得させられておるのでございます。
 私どもは、大切なことほど、知っていないのではないかと思わせられます。私どもの「いのち」というものには「たましい」のお働きがあり、その「たましい」が、私どもの体のありぐあいについても、心の調子についても、たえず導いてくださっている。その「たましい」の消息を、よくよくわからせてもらい、できるかぎり縁のある方に、お伝えさせて頂きたい、そういう願いを改めて、切実に持たせてもらっているようなことでございます。共々におかげを蒙ってまいりたいと存じます。

(秋季霊祭お話・平成元年9月23日)


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