「たましい」と「こころ」と「からだ」

竹 部 教 雄   



〇「たましい」について


 それは、私どもが、人間のことについて考えますとき、心と体との二つに分けて考えるのが普通ですが、新教典を拝読してまいりますと、その心と体とを超えて、この二つに関わる働きとして、「たましい(魂)」というものが存在することを教えてくださっています。この「たましい」というものも、人間が作ったものではないのでありまして、この「たましい」にお目にかかるということが、人間が本当の人間(神)になっていくことであろうかと思うのであります。
 教祖金光大神様は、この「たましい」の存在について、
「五穀を田へ植えるのを種おろしという。夫婦の間に人知れず子どもを授けてくださり、魂をお与えくださるのは、神様からのお種おろしである」と、このようにおっしゃっております。そうして、この「たましい」は、人間の体と心の上にどのように働きをしているのかについて、次のようにみ教えくださっています。

〇「からだ」について


 まず「からだ」でございますが、「人間が食い飲みをするときに、このくらいでよろしいと思う時が、天地の親神の魂が分限を定められた時である。これが、体に相当するのである。それをもう一杯、また一杯と我食い我飲みをして病気になる人もあるが、これは神様へ対しご無礼ではないか。また、食い過ぎ飲み過ぎして、嘔吐をする者もあるが、これも悪い考えである。食い飲みを無理に強いるのもまた、親切ではない」
 このように「からだ」の司としての「たましい」のお働きを教えてくださっています。

〇「こころ」について


 また、「こころ」につきましては、このように仰っています。
「夫婦は他人の寄り合いである。仲よくすれば、一代安心に暮らされる。夫婦げんかをしても、後から心が折り合う時、よく考えてみると、わけがわかる。この事柄を自分でわかるということは、天地の神様よりお与えくだされた霊(魂)が、体の司だからである」 私どもは、さ細なことで夫婦げんかをせざるをえないわけです。しかし、それは「こころ」の働きでございます。ところが、「こころ」のままにけんかをしますと、そのあとに、言い過ぎたな、ああまで言わなくてもよかった、自分もわるかったと、このように反省します。私どもは、この反省を自分がしているように思っています。
 しかし、実はそうでないのです。自分の「こころ」を超えた「たましい」の導きによって、反省させられているのです。その「こころ」と「たましい」との働き合い、「からだ」と「たましい」との働き合い、この関係をしっかりと分からせて頂くところに、信心の不断の稽古、常平生の信心の稽古の大切さがあると、このように思うのであります。

〇「たましい」の世界


 日本人は生活は豊かになったが、心が豊かでないということが今日問題になっています。その「こころ」の世界というものは、正確にいうと、「たましい」の世界なのであります。そして、人間に、この「たましい」がそなわっているので、人間の世界が整えられているわけなんです。
 日本人が満州や中国を侵略して、そこで、いろんな残虐な行為を行いました。そういう戦犯の人たちが中国で裁かれ、1060人の方々の告白文が、残されています。昨年、NHKでその方々にインタビューをした特集番組が放映されました。
 始めは残虐な行為について、とにかく告白文を書きさえすれば、少しでも刑が逃れられるという気持ちで安易に書いておった。ところが、なんべんも書き直しをさせられていくうちに、次第に罪を認めざるをえなくなる。しかし、それでも、何とかそこを言いつくろって、少しでも刑を軽くしてもらいたいという気持ちが、どうしても動く。ところが、更にそれを書き直しているうちに、自分のやったことは、本当に悪かった。どんな極刑に処せられても、申し開きはできない。どんな処分を受けても結構です。死刑に処せられても結構です、という心境になったということが語られていました。
 死刑に処せられても、自分のしたことは悪かったと認めるという動き、これは、「信心せんでもおかげはやってある」という、天地の神様から賜った「たましい」のお働きであると思うのです。
 この「たましい」の存在によって、私どもの世界というものは、かろうじて整えられているわけです。

 昨年2月、竹下首相は、「第二次世界大戦が侵略戦争かどうかは後世の史家の判断に待つ」との、あいまいな国会答弁を行い、国際的批判を浴びたわけです。どうも、人間は集団次元になりますと、倫理的な考え方が乏しくなります。それだけに、国民一人ひとりが本当の人間になっていく、「たましい」の世界を大切にしていくことが、いよいよ大事になっていく時代であろうかと思うのであります。

〇「よい話をしていく運動」とのかかわり


 「よい話をしていく運動」が昨年、スタートし、願い、実践が設けられています。願いの2行目に「わが心の神にめざめ」という言葉があります。この神という言葉には、いろんな考え方が勝手に持ち込まれやすいので、先程来、お聞き願いました、「たましい」という言葉に置き換えて理解していきたいと思っています。わが「こころ」のもう一つ奥にある、「たましい」の声に耳を傾けてみますと、この「たましい」というものは、われひと共に助かっていく、自分さえよければよいということでは落ち着かないものを感じさせてくれています。まずは、この「たましい」の存在に「こころ」を寄せ、その声にわが耳を傾けていくおかげを蒙りたい、このように思わしめられております。
 「よい話をしていく」ということは、この「たましい」の世界に触れた話がよい話であると、このように理解させて頂いています。この一年色々とご用のおありのことと思いますが、その中で、この「たましい」の世界のことを、ちょっと心にかけて頂きたい。時折には、そのことを思い出して頂きまして、常平生の信心のおかげを受ける稽古を共々にさせて頂きたいと、このように願うしだいでございます。

(元日祭お話・平成2年1月1日)


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