衰えながら成熟していく人生

竹 部 教 雄   



 人間は歳をとるにしたがって、しだいに体が衰えていきます。体が衰えれば、自ずから心も衰えていくわけです。ところが、ありがたいことには天地金乃神様は、脳の働きだけは死ぬまで衰えないというお恵みをくださっているのです。ぼけるというのは、脳を使わないからぼけるのです。脳だけはどれだけ使っても、その働きが衰えるということはないとのことです。そこで、その脳の働きをどのように使うかということが大切になってまいります。
 歳をとると、若い時のように外の世界に価値を求めての動きはしだいにできなくなりますが、心のうちら側、内面的世界を豊かにしていくことはできるのであります。そういうところへ、脳を働かせていくということが大事なことだと思うのであります。

 その内面的世界、心の世界のきわまるところは何であるかを最近の学問の世界が教えてくれています。それは「臨死体験」といわれる世界であります。医者から臨終を宣告され、一度死んだ人間が生き返るという不思議な体験であります。死ぬと同時に魂が体から抜け出ていく、そして暗いトンネルを通りぬけると、向こうから何ともいえない激しい喜び、愛、安らぎの光に出合う。その素晴らしさに圧倒されて、もうこの世の中には帰りたくないというほどの喜びと安らぎの世界を体験するとのことです。こういう不思議な体験をした人々は、そういう体験を他人が真面目に聞いてくれるとは、とても思えないので黙っていた。それを学問の方法と力で、一人ひとりの口を開かせていって、大勢の人の中から、そうした体験に共通しているこのような世界をつかみ出してきたのです。

 そして、そういうところを一度通った人々は死というものは、もう恐ろしく感じない。死ぬことについて心配がない、心配の種がなくなる。そのために、今までのような将来や過去にとらわれて、生活をなんとかして安定させよう、生活をなんとか良くしようということにやっきになる。お金を求める、地位を求める、いろんなよいものを得ようとする、そういう気持ちが全然無くなってしまう。その日その日を喜びと安らぎと安心をもって暮らすことになっておられるのだそうです。


 私はこの話を読ませてもらいまして、この世の中で出合ったことがないような、素晴らしい安らぎと喜びに満ちた愛の光の世界、これこそが、教祖金光大神様が生きながらにして、ご体験になった世界だと思いました。だから、金光という名前が生まれているのではないかと思います。人間の肉体から離れた魂が、そういう世界を感得したということは、この天地にそういうすばらしい世界が満ちているということだと思います。私どもの生命の深いところにそういう世界を感得する能力が恵まれていると思うのです。

 日々を安心に暮らさせてもらう、今日一日というものを何よりも大事なものとする臨死体験者の生き方は、まさしく「今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」との天地書附の世界だと思うのです。「和賀心」というのは、和らぎ喜ぶ心であって、そういう心が我々には恵まれているのであります。しかし、それは開拓していかないと、育っていきません。しかし、そういうことを教え導く働きはこの社会にはあまりにもなさ過ぎるわけです。そこに宗教がこの世に存在する意味があり、信心している者が他の方にご信心を伝えていく使命があると思うのです。教祖金光大神様は「真一心の信心を立てぬけ。美しい花を咲かせ、よい実を結ばせてやる」と仰っています。このお言葉には間違いがないと確信しております。


 私自身、昨年「前々の巡りあわせで難を受ける」ということは、どういうことなのか、教祖様に「七墓を築く不幸」を重ねさせられた天地金乃神様の御神意はいったい何であったのか、という40年がかりの疑問に私なりの解答を見出させて頂いたときに、「よくもよくも人間に生まれさせて頂いたものだ」と思いました。私どもは自分の考えや力で人間に生まれてきたのではない。生まれてきてみると、人間であった。人間に生まれてきたので、教祖金光大神様の御世界、天地金乃神様の御徳の世界を知らせてもらうことができたわけです。これにまさる喜び、ありがたさというものはないと、つくづくと思わさせて頂いたのです。しかも、この世界は生きている限り、どこまで求めても求めきることができぬほど、深くて豊かなものであります。

 私が今日ようやく感じとらせてもらっているものも、金光大神様の御世界からすると、ほんのささやかな世界をかいま見たに過ぎないと思います。そういう世界を見せてもらうことができたおかげで、70歳が近くなり、肉体はしだいに衰えていきますが、それに反比例して、心の世界、魂の世界というものが豊かにならせてもらえる、そういうお道におかげを蒙っておるということをまことにありがたいことに思わせて頂いております。
 このようなおかげを受けるについては、「道の教えを本にして、御取次を頂いて、信心の稽古をする」ということが、基本であると思います。各自の心が神様の心にかなう心になっていくかどうか。それは教えを頂いて、教えに照らして自分たちの日々の暮らし方、生き方というものをよくよくと見つめてみないことにはわかりません。鏡があるので、自分の顔を見ることができます。自分の顔を見ることができるから化粧ができます。それと同じ意味あいで、心の顔を写す鏡が金光大神様のみ教えなのです。教えの鏡に写った始めの顔は、決していい顔ではございません。しかし、御取次を頂いて信心の稽古をしてまいりますと、しだいに人様の前に、さしだすことができるよい顔に成長していくのだと思わせて頂いております。

(大祭感話・平成2年5月20日)


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