よしあしを超える道に生かされて

竹 部 教 雄   


 かつて、岡山県の私立の高校の先生方の研究集会の席で、「問題の生徒をいかに取り扱うか」という部会のテーマに関連させて、「家庭の助かり」という題で話をさせてもらったことがございます。
「大きな問題を起こした生徒、たびたび問題を起こす生徒、つねに問題を起こしそうな生徒、このような生徒の事前事後の指導は真に困難である。厳罰に処してよくなるとは限らず、あまい扱いでよくなるとも限らない。他の生徒との関連があり、学校における指導の限界がある。家庭にも問題があり、教師も疲労困憊の状態である。でもいかなる生徒もよくならねぱならぬし、よくならせずにはおけぬ。一体どうあれぱよいか」というのが、部会の問題であったわけです。


 私は、このテーマをみて、この「問題の生徒」という言葉を「問題の人間」という言葉に置きかえてみると、ここに問題とされていることは、そっくりそのまま、私のことをいわれているように思われたのであります。私という人間は、まさしくこのような始末におえぬ人間なのであります。
 とは申しますものの、私自身、はじめから自分をそのように思っていたわけではありません。自分はよい人間であると決めこんで、妻や子供に、こうなってもらいたい、ああなってもらいたいと注文ばかりつけていたのであります。しかし、注文どおりにはなりませんので、妻や子供を問題児扱いにし、もてあましておったのであります。


 ある日のこと、そういう問題を師匠に聞いてもらいましたところ、師匠は、「あなたのような生き方あり方では、わるい者が生きられん。わるい者がいきができん。わるさというものも、一つの位置が与えられなければ、よくなる道がつかない」とおっしゃったのであります。私は愕然としました。頂門の一針でした。そこで、その教えに照らして、私の日常の動きをみていくことにならせられたのであります。
 すると、妻や子供の方にだけあると思っていたわるさが、姿をかえ形をかえて、私の方にもある。いやむしろ、私の方にこそあるということがしだいに見えてきました。そして、その自分のわるさには眼をつぶったままであること、わるさにはわるさの歴史があって、ちょっとやそっとの努力ではどうにもならないものであることに気づかされまして、私は少しらくになったのであります。
 と申しますのは、それまでは、これくらいのことがどうしてできないのか、と責めていたことが、いざ自分自身のことになると、なかなか改めることができないものですから、真に無理な要求をこれまで相手に押しつけてきたことが分からされたからであります。また改めることのできない理由が得心できたからであります。そこから、困った存在、厄介な存在としてもてあましていた妻や子供が、ひとしくどうしようもない者同士として、親しみを覚えるようになり、まず、私自身そこからよくなる道を求めるほかはないことになったのであります。


 そこから気づかされましたことは、私どもはともすれぱ、できのよしあしだけで人間を判断しがちなのですが、実は、できがよいからわるいからということで、生きることができているのではないのであります。できのよしあしを超えて、私どもの生きている根源に、私どもを超えた大きなお働きがあって、そのお働きのおかげで生きることができているというのが人生の真実であることに目を開かせられたのであります。
 そして、そのお働きは、どこまでも、私どもがよくなるように、よくなるようにと、働きつづけてくださっている。私どもの眼からすると、どうにもこうにもならぬと思われるようなわるさの中にも、その底にそこからよくなるようにと、働き続けてくださっておることを、ひしひしと感じせしめられるようになったのであります。
 そのお働きを信じ、そのお働きにすがって、どうにもこうにもならぬわるさをもった者同士が、いとおしみあい、祈り合って人間としての生を全うしていくことができると、今日では信じさせられております。よいものが更によくなるのも、そのお働きのおかげによるものと思われます。


 このような、よしあしを超えて、私どもの生きていく根源に働いてやまぬ深くて豊かな大いなる働きを、天地金乃神と申し上げ、この神の働きに基づいて生きる生き方を、この世で初めて、生活の実際の上にしぬいてくださり、私どもの眼にはっきりと神のおかげを見せてくださった方が、金光教祖、金光大神であります。
 金光教祖は、その生活の実際をもって、「この方がおかげの受けはじめである」と申され、「皆もそのとおりにおかげが受けられるぞ」と力強く語られ、事実、教祖没後百年の今日に至るまで、人から人へと、そのおかげを受け取り受け伝えて、今日に至っているのであります。

 自他ともに、どのようなわるさをも、もてあまさないで生きていける人間にならせてもらいたい、私自身、かかわる相手次第では、どれほどのわるさをひきださせられるかわからぬ者として、どこどこまでも、かかわりのある多くの方々のお導きを頂て、限りなくよい者にならせてもらいたいと、このように願わせられております。
(1983(昭58)年10月12日、朝日放送「金光教の時間」で放送された話)

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