竹 部 教 雄金光教では、「天地書附」という、わずか三十四文字に濃縮した教えを大切にしております。 「生神金光大神、天地金乃神一心に願、おかげは和賀心にあり、今月今日でたのめい」 というのが、それであって、心にかける日々の守りとして、朝夕の礼拝に唱え、信心を進 めるよりどころとしております。この「天地書附」は、いったい何を私どもに示している のか、私の受けとめているところを、一つの出来事を通して述べてみたいと思います。 母が家計の責任者であったのですが、なぜかそのわけにふれたがらず、なんとかやりくりがつくから心配してくれるな、の一点張りです。しかし、なんとなく不安なので、なんとか心を開いて打ち明けてくれるようにと、神様に一心にお願いして話し合いを重ねましたが、問題の核心部分にふれると、口を貝のごとくに閉ざし、表情は能面のようになってしまうのです。そうなると、こちらもつい意地になって責め立てざるを得ません。 ところが、責めた後のあと味のわるさというものは、たまらなくいやなものです。どうして母と子が、こうもいがみ合わねばならぬのか、悲しくさえなる日々が繰り返されました。 「一心に願え」といわれても、いったいこれ以上、どうすればよいのか分かりません。 ついに思いあまって、先生に悩み苦しみの一切を打ち明けて教えを乞いました。 先生は長い間沈黙の後、「私があなたなら、一つだけ道があるがな」と一言ぽつんとおっしゃいました。 「それはいったい、どういう道ですか」思わず膝を乗り出しました。 「あなたが、一番わるいところを受け持たせてもらうのです」私は一瞬、あっけにとられましたが、気を取り直してお尋ねしました。 「わるいのは母であって、私はなにもわるくはありません。それなのに、なぜ私がそのような目にあわねばならぬのですか」 先生は諭すような調子で、「お母さんの生き方を変えさせようとするところから、あなたの道は行き詰まってしまっているのでしょう。だが、あなたの生き方を変える気になれば、そこには道があるのです。道のあることをありがたいと思って、一歩一歩、その道を歩ませてもらいなさい。それが生神金光大神の道なのです」 ところが、日ならずして、絶望したはずの私が、なんとかして先生の教えを分かりたいと求めはじめていたのです。ふしぎという外はありません。絶望の底にあって、なお、なんとしても立ち行きたい、という命の願いともいうべきものが、私を突き動かしたとしか言いようがありません。命のそういう動きをふまえて「一心に願え」とおっしゃり、「神の綱は切れたというが、神は切らぬ、人間の方から切るな」とおっしゃっるのであろうと思います。 自分を見つめてみますと、問題の相違、大小、程度の差こそ母とは違うものの、私もまた、方々で不始末をしでかしており、その始末がつけられない人間でした。母の難儀な姿は、実は私の姿であったのです。それどころか、母をもてあますあまり、心の底の方で、いっそ死んでくれたら助かるがなあとひそかに思っている私でありました。がくぜんとしました。 金光教祖は「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ」と教えておりますが、まったく不届きな心の持ち主の私であったのです。一番わるいところを受け持て、との先生の教えがやっと得心できました。ありがたいことには、このような私を見放さず、「無信心者ほど神は不憫でならぬ。信心しておかげを受けてくれよ」と無限の祈りをかけてくださっているご存在が天地金乃神であり、人間の身をもってその神心を体し、信心しておかげを受ける道を祈り導いてくださる方が生神金光大神なのであります。 私は、ひれ伏して、ここからの改まりの生活を一心にお願いすると共に、母にはひたすらにお詫びせずにはおられませんでした。問題は何ひとつ片づいていないのに、まったく不安がなくなり、どんなことでもさせてもらおうという生き生きした力が体内になみぎってまいりました。 「おかげは和賀心にあり」といわれるその生き方にならせられたのであります。 この天地に生まれてくる人間は、誰一人として、もてあましたり、もてあまされたりすることなく、自分を伸ばしていくことが、人を伸ばしていくことになる。そういう人生が開かれていくことを、この「天地書附」の世界は願っているものであると思います。 (1980(昭55)年1月30日、朝日放送「金光教の時間」で放送された話)
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