愛と安らぎと喜びの心に
満ちた人生を生きる

竹 部 教 雄   



 ここ数年、私のなかで問題になってきておりましたのは、死生観の問題でございます。およそ、集団とか、団体とか、社会とか国家とかとの関係においての本教信心のあり方というものは明らかではありませんが、死生観の問題も、その基づくところがはっきりとしておりません。
 そういうなかで、私自身、父が亡くなりましてから、死ということが問題になってきまして、「おかげのなかの老いと死」ということを、ここ2、3年求めさせてもらってまいりました。そして、今日に至りまして、問題の焦点となっておりますのは、金光大神様が、
「人間が生まれると同時に天地金乃神様は人間に魂というものを授けておるんだ」
と仰り、また、
「人間が死ぬとその魂は、天に帰るんだ」
とこのように申しておられる、その魂というものは、一体どういう世界を希求しておるものであるか、ということでございます。

 ところが、ここ数年の精神医学の進展によりまして、少しばかり、あの世のことを、かいま見ることができるようになったのであります。医者に死を宣告されて一度あの世に行った人間が、この世にもう一度甦(よみがえ)ってくるという、真に不思議な体験が数多く集められているのであります。そういう例がアメリカにも、日本にもある。また、日本の昔物語にも、中国の昔物語にもある。いわば、古今東西のそういう事例を貫いて、そこにひとつの共通した死後の世界をかいま見させられるようになってきているのであります。

 死を宣告された人間の肉体から魂が離れるのが、はっきりと体験されるのですが、その魂は、どういう世界を感得するのかといいますと、今までこの世で一度も経験したことがないような、愛と暖かさに満ちた光りの生命に出会うということでございます。そして、激しい喜びと安らぎに圧倒されて、もはや2度と、この世には帰りたくない。肉体を離れた魂というものは、そういう世界を感得しているのであります。
 そして、甦ってからの生活は、明日のことを思い煩わず、昨日のことを悔まず、今日一日を楽しく暮らせるようになっている、とのことであります。まさしく「天地書附」の世界に生きているのであります。
 死によって、肉体にとらわれている我情我欲、私利私欲から、信心があるなしにかかわらず、魂が解き放たれる。我情我欲から解き放たれたその魂というものは、そういう世界を感得しておるということです。
 ということは、この天地は、実はそういう愛と安らぎと喜びに満ち満ちているということなのでしょう。そして、私どもの生命に具わっている魂は、それを感得する力をそなえているということだと思います。

 この世界こそが、天地金乃神様のきわまりない、御恵みそのものであろうと思うんです。死んでから、そういう世界に至りつくのではなくて、生きている間に、その世界を受け取らせてもらえる可能性をもっているのが、人間なのではないでしょうか。生きておる間にその世界を体現され、顕現されたそのお方が、私は「生神金光大神様」であろう、とこのように思うのです。まさに、「永世生きどおし」でございます。


 年をとるにしたがって大事なことは、「魂づくり」であるということが、今日、しだいに世の中で問題になってきております。「魂づくり」ということが問題となるというのは、本当の安らぎ、喜び、愛に満ちあふれた世界を、私どもの命というものは望んでおるということなのでしょう。
 めいめいは、「生活」に追われて、「人生」を求めることがおろそかになっております。けれども、「生活」から「人生」へと眼を転ずると、私どもの生命というものは、そういう世界をこそ乞い求めているのであり、愛と喜びと安らぎに満ちあふれている世界の中に生かされておるのだということでございます。
 であるが故に、「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」といわれるのであろうと思います。それは、生死を超えて、無限の過去から、無限の未来に流れていく、永世生き通しの世界でございます。そういう魂の世界を顕現させて頂くところに、私どもが人間として生まれさせられ、人間として生きている意味があると思います。

 年を重ねるに従って、肉体は日一日と衰えていきますが、それに反比例して、魂の世界は、その気になれば、求めやすくなっていきます。なんとしても、この魂の世界を体得し、少しでも世の中の人々に伝えさせて頂く、そういうおかげを蒙らねばならんと、いうことを思わせられております。

(金光大神大祭御礼ご祈念後あいさつ・昭和63年11月23日)


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